今週のお題「おとうさん」
今年の父の日も、私は直接父に会うことができないため、インターネットでギフトを手配しました。
父が数十年前まだ現役で子育てをしていたときのことを思い出してくれるかな?と、淡い期待を込めて贈りました。
というのも、私が子どもの頃、こちらのサイボクハムには家族で何度か訪れている思い出の場所だからです。
子育て中に過ごした埼玉を離れ、現在は親(つまり私の祖父母)の介護のためにUターンをした我が両親。
Uターンをしてからすでに15年以上が経過し、母の両親2人を見送っています。
プレゼントを受け取った日に、「ありがとう。あれは、何度かキャンプの帰りに行ったところのだよね?」と、ラインのメッセージが来たので、やはり父の記憶にサイボクハムは残っていたのだとわかりました。
お味も美味しかったそうなので、今後もお中元やお歳暮などでサイボクハムのギフトを使っていこうと思います。
思春期には父の考えの古さが嫌で、冷戦状態になったこともある私と父。
けれども、今は父に対して感謝しかありません。
父の日は終わってしまいましたが、父との関係について書きたいと思います。
私が子どもの頃の父親
私の子どもの頃、父は家事や育児をする父親ではありませんでした。
家族でのレジャーに出かけることは多かったけれど、母が家のことはすべてやるのが当たり前という家庭で、私は育ってきました。
年に一度母が高熱を出して倒れたときなどは、塩っ辛い味噌汁を作ったり、なぜかキャンピング用具を駆使して炭火でパンを焼いたりしていた父。
家事のレベルは相当低かったのでしょう。
私には2人の弟がいますが、弟のオムツを父が交換している姿なんて見たことはありませんでした。
しかも、頑固で少し面倒な性格の父。
近所の人から秘かに「なみちゃん」と呼ばれていたのも、その頑固で怒りっぽい性格のせいでした。
「なみちゃん」はサザエさんの波平さんから由来したニックネームだったからです。
なぜ父に感謝をする気持ちが芽生えたのか?
それでも、今の私は父には感謝の気持ちしかありません。
それは、私が3人目妊娠中に切迫流産になったとき、退院後に手伝いに来てくれたのは父だったからです。
しかも、その後3人目の子どもが生まれたあとも、3週間ほど我が家で家事をしてくれました。
非イクメンの父が手伝いに来た理由
そもそも、私の父は家事も育児も大してやってこなかったのに、なぜ我が家に手伝いに来てくれたのでしょうか?
切迫流産になったとき、私は3人目の妊娠8週目でした。
2日前の健診で心拍の確認ができて安心したところだったので、長男にお腹に赤ちゃんがいることを伝えたばかり。
「おめでたいから」と、家族でお昼を食べに出かけたあと、トイレに入ったとき出血に気づきました。
たまたま分娩の予約をしていた病院が外出先の近所だったので、そのまま歩いて病院へ行くと、外来の受付の方が慌てて車いすを準備してくれました。
車いすに乗って、産婦人科の診察を受けたところ、
「どうするのかはご家族で決めることですが、医者としては絶対安静にしてもらいたいという考えです。お子さん2人いるんですね。自宅で絶対安静できますか?」と、暗に入院を勧められました。
夫はその場で私の母と職場の上司に電話をして、仕事と家庭のあれこれを調整したそうです。
そして、私はそのまま期間未定で入院することになりました。
子どもは当時5歳と1歳。
2人とも元気な男の子です。
「明日1日で仕事を片付けるから、明後日の朝1番の新幹線で大阪に行く!」と、母は言ってくれましたが、フルタイムで働いている仕事を休めるのはせいぜい5日間。
母からバトンを渡されたのは、すでに定年退職して暇だった父だったのです。
父がしてくれたこと
私の出血が止まり、思ったよりも胎児の状態が良かったので、父がやって来る日に私は退院することができました。
私は自宅に戻ってもあまり動かないようにと言われていたので、家事はすべて父と夫にお任せしました。
父は朝食の準備や片づけをして、洗濯物を干します。
その後、息抜きがてら自転車に乗って買い物に出かけます。
もちろん、昼食や夕食の食材はそのときに購入してくれました。
「最近クックパッドとかいうので、料理ができるようになったんだ」と、話していた父は、その言葉通り私の子どもの頃よりも料理ができるようになっていました。
洗濯物を干すときは「なんでお前の家は洗濯物がこんなに多いもんかねー」と、愚痴をこぼしていましたが、それでも几帳面な性格の父は毎回きっちり干してくれました。
次男のオムツはまともに替えられなかったけれど、家の中で息子たちと遊んだりテレビを見たりしながら過ごしてくれたので、普段より私が動き回る必要はありませんでした。
今までの人生で1番父と密な時間を過ごした数週間
私がずっと家にいなければいけない状態だったので、昼間は必然的に父と過ごすことが多い日が続きました。
今振り返ってみても、こんなに父と一緒に過ごしたのはこのときが初めてでした。
お昼ご飯に父が作ってくれた麺類を食べながら、父と話していると、今まで知らなかった子育て中の父親の姿が見え隠れすることがありました。
私が子どもの頃、我が家ではキャンプに出かけることが多かったので、私はずっと父がアウトドア好きなのだと思っていました。
けれども、父が言うには「俺は都会っ子だから、虫は嫌いなんだ」そうで…。
子どもたちをキャンプに連れていっていたのは、何かの本で「子どもの心身の成長には家族でキャンプするのが良い」というのを読んだからだというのです。
父との最初のキャンプから25年以上経って、初めて知ったことでした。
「嫌いなのにキャンプに行きたいふりして頑張ってたんだ…」
少し呆れましたが、それほど父が子どもたちのことを思ってくれたんだとわかりました。
父が娘の手伝いに来た本当の理由に気づく
15年ぶりに父との濃密な時間を過ごす中で、お互いのマイペースっぷりにイライラしてしまうこともありました。
しかしながら、家事も育児もほとんど経験のない父が新幹線に乗って私のところに手伝いに来てくれた本当の理由に気づいたとき、本当にありがたくて涙が出そうでした。
本当の理由とは、「子ども(私)を大好きだ」ということに他なりません。
だからこそ、常にすでに大人になった子どもたちのこともを心配しているのだと思います。
切迫流産で入院になったとき、義理の両親は「まー、大変ね!仕事はどうするの?子どもたち(孫)はどうするの?」という反応でした。
けれども、私の父は「お前は大丈夫なのか?」と、第一声で聞いてくれました。
私は息子2人のことが心配で、自分自身の体のこともお腹の子ども(現在の末っ子長女なのですが…)のこともあまり気にする余裕がない中で、「あ、私は心配される側だったんだ!」と、気づかされました。
「何ができるか?」ではなく、「何でもしてあげたい」と思うのが親心なのかもしれません。
まとめ
父が自宅安静になった私を案じて手伝いに来てくれたことで、1番変化があったのは私の夫だったのかもしれません。
「お義父さんがやってくれるくらいなんだから、自分もやらなきゃ」という気持ちが大きくなったのか、現在我が夫は家事も育児も率先してやってくれています。
現在の父は相変わらずマイペースですが、私の子どもたちのことをとてもかわいがってくれます。
離れて暮らしているので会う機会は少ないけれど、ラインで子どもたちの写真を送る毎日です。
転勤族で実家を頼れないと思っていた、我が家の救世主だった非イクメンの父。
長女が大きくなったら、「おじいちゃんが手伝いに来てくれたんだよ」ということを伝えようと思います。