先日のこと。
私と夫が結婚する前にお世話になった上司の方が、ブラジルにやって来ました。
せっかく地球の裏側までやって来てくれたのだからと、我が家の子どもたちも同席させて食事会をすることになりました。
約11年ぶりの再会です。
上司の方は白髪が増え、年相応の貫禄が出ていらっしゃいました。
私も20代前半の初々しさは消え、肝っ玉母さんになっているはずです。
3人の子どもの母親ですから。
私はその食事会で、自分がまだ独身で働いていたときのことを強烈に思い出しました。
そして、私の人生の中で最も大きな決断は、仕事を辞めて結婚をし、そして夫のインド駐在に帯同するということだったのだと気づきました。
その決断をするまでに、どのくらい迷っていたのかは覚えていないけれど…。
食事会の最中に楽しそうに「将来スポーツ選手になりたい!」なんて話している長男を見て、「自分は特別な何かになれると思っていたのに、何歳のときに現実を知ったのだろう?」と、私は自分の子ども時代にも思いを馳せました。
今回は、そんな私の人生の「迷い」と「決断」について書いていきたいと思います。
- 私の結婚観や性格
- 勉強も運動もできた子ども時代
- 「女性である」ということを意識した新入社員時代
- 「特別な何か」を求めた?結婚・退職・インド!
- 思ったほど「特別」ではない駐妻という存在
- 仕事で「特別な何か」を得ているのは踏ん張った人だけ。じゃあ、私は?
- まとめ
私の結婚観や性格
私はもともと結婚に憧れているタイプではありませんでした。
かといって、仕事をバリバリしたいという希望も持っていませんでした。
何となく、大人になったら仕事をするし、結婚をして子どもを育てるのだろうと考えていたのだと思います。
結婚も仕事も、希望としてではなく、義務としてしなければいけないというほうが感覚としては近いのです。
それはのびのび育っていて素直だった、子ども時代の刷り込みが影響していると思います。
勉強も運動もできた子ども時代
私は小学生の頃から、勉強も運動もできるタイプの子どもでした。
人口の少ない田舎で育ったので、競争相手もいなかったのでしょう。
また、私は同い年の子どもに比べて背が高かったので、運動に関しては2学年分体格差があるような感じでした。
何をしても1番になれる私は早熟でした。
「わかっている子」でいたかったし、実際に他の子よりも世間のことをわかっていたのかもしれません。
小学生の頃はみんなが好きなアイドルが出ているドラマよりも、「渡る世間は鬼ばかり」のほうが理解できる私でした。
否、そのように演じていたのかもしれません。
けれども、そんな私は「将来何になるのかわからないけれど、きっと特別な何かになれるはず」だと、信じていました。
「女性である」ということを意識した新入社員時代
私にとって1番でいることは当たり前で、高校も県内の進学校に行きました。
周りは地元で1番だった子どもたちばかり。
テストの順位はがくんと落ちて、初めて「勉強ができない」という焦りを感じました。
ただし、私の進学先は女子高でした。
男子のいない空間で、のびのびと育ちました。
「社会は男性中心に回っていて、どう足掻いても勝てない」と、気づいたのは社会人になってからでした。
私は新入社員時代に初めて、会社の中には「女性」と「女の子」がいることを知りました。
私の会社では、総合職の女性は「女性」と呼ばれ、一般職の女性は「女の子」と呼ばれていました。
私は「女性」でした。
けれども、ここぞという大事な仕事は「女性」には回ってきません。
同期の男性社員に負けている気はしなかったし、決して会社の人たちからセクハラやモラハラを受けたわけではないのだけれど、「期待されていない」という空気は感じていました。
総合職で採用された私には転勤が付き物だったので、「結婚したら辞めちゃうんだよね?妊娠したら無理だよね?」というのが、当時の社内の一般的な感覚でした。
「特別な何か」を求めた?結婚・退職・インド!
「頑張ってもここで『特別』にはなれない」と、私が感じていたとき、ちょうど当時付き合っていた現在の夫にインド駐在の話が出ていました。
夫にとっては大きなチャンスですが、不安も大きかったようです。
私は「インドについてきてほしい」という形で、プロポーズされました。
私は別にインドに興味があった訳ではないけれど、「インドに行くから結婚なんて、面白いかも!」と、仕事に意欲を見出せないことへの逃げ道として、結婚とインド行きを勢いで決めました。
25歳のことでした。
実際に、結婚と退職とインド行きを報告すると、周りからの反応はなかなか良かったものです。
結婚を決めてから9ヶ月間を仕事の引継ぎに費やし、その後インドでの新婚生活を始めました。
思ったほど「特別」ではない駐妻という存在
「え!?本当にインドに行くの?仕事辞めちゃうの?」なんて、周りをザワザワさせて出国した私ですが、実際に現地で生活し始めると、ただの無職でした。
夫は平日仕事があるので、夫を見送ってから夜遅くに夫が帰宅するまで、私は1人で自宅で過ごしていました。
停電があったり通いでやって来るサーヴァントがいたりするだけで、自宅内で過ごす分にはインドなのかどうかわからないくらいです。
www.pooja-tenkinduma.work
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ずっとパソコンのゲームをしていて「私って何をやってるんだろう?」と、ため息ついたり焦ったりしながら、鬱々と過ごしていました。
友人ができてショッピングやランチに出かけるようになっても、「私は稼いでいない」という気重さは抜けませんでした。
仕事で「特別な何か」を得ているのは踏ん張った人だけ。じゃあ、私は?
その後子宝に恵まれて2児の母になった私は、6年間の駐在生活を経て帰国しました。
そこで、気づいたのは「自分の同級生たちが子どもを産んでも仕事を続けている」という事実でした。
私は早い段階で諦めて逃げたけれど、子どもが生まれても産休取って育休取って踏ん張って仕事を続けている友人たち。
6年間の無職生活を結局は謳歌していた私は、太刀打ちできません。
「2番目が幼稚園上がったら再就職したい」なんて言っていた私ですが、3人目を妊娠したため、七夕の願い事のような雑な願いで終わってしまいました。
30代半ばになって、いろいろなことを諦めつつあります。
その反面、勇気さえあれば何歳からでもチャレンジはできるだろうとも思っています。
けれども、まだ思春期のように「私は何になりたいのか?」なんて、夢見がちなことを考える自分が出てくることもあります。
夜眠れなくて、「私は何をやっているんだろう?」と、ふと考えるとき、私の脚には長男がコアラのように抱っこしています。
右手は次男が恋人つなぎ。
左肩を長女が枕にしながら寝息を立てています。
私には煌びやかな経歴はないけれど、その分この子たちの「特別」にはなっているのかもしれません。
普通のおばさんですが、3人の母であることに今は胸を張ろうと思います。
今しばらくの間は。
まとめ
振り返ると、自分が女性だから失ったものと得たものがあることに気づきました。
文句を言いたくなることもありますが、結局は今の自分の状況は面白くもあります。
楽しいとか面白いと思う余裕があれば、どんな決断も良い結果になるのでしょう。
今は始まったばかりのブラジル生活を思う存分楽しんでいこうと思います!
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