特別お題キャンペーンを見つけて、住みたい街と住みたかった街について書きたいと強く思いました。
憧れの東京と埼玉人の私
私がまだ親元で暮らしていたときには、私にとって憧れていた街は絶対的に東京でした。
子どもの頃育ったのは、埼玉県。高校は県内の学校に通っていましたが、休みの日には池袋や原宿、渋谷に出かけていました。
当時私は古着が好きで、1人で古着屋さんを何軒も巡っていました。
しかしながら、東京で一人暮らしをするというのは、むしろ地方出身者よりもあり得ないことでした。
埼玉の田舎に住んでいても、父親は東京23区内の職場までバスや電車を乗り継いで片道1時間半かけて通勤していたからです。
頑張れば通える場所、東京。
高校2年生の冬に、何となく進路を決めたのですが、そのときも受験する大学の所在地は大半が東京だったし、東京でのキャンパスライフを送るのを楽しみにしていました。
たとえ父と同じように、通学に長時間かけることになっても、やはり東京の大学に通いたい気持ちが強かったのです。
両親のUターンと大学受験
しかしながら、雲行きが怪しくなったのは、高校3年生の夏のことです。
父方の祖父が他界し、今まで夢見話のように思っていた両親のUターン話が本格的に出てきたのです。
継ぐ必要のあるような家柄ではありませんが、長男として育った父はどうしても実家のある佐賀に戻りたいということでした。
母の実家も福岡だったため、「最後は親の面倒を看たい」と、両親ともに希望したのです。
「あんたは大学に入ったら、一人暮らしさせてあげるから受験に集中しなさい」と、母に言われ、私は混乱しながらもものすごく嬉しかったのを覚えています。
偶然が重なって、私は憧れの「一人暮らしin東京」を手に入れられることになったからです。
「どんな間取りの家が良いかな?家具は全部無印が良いよね!」なんて、思い浮かべると、亡くなった祖父には申し訳ないけれど、ニヤニヤが止まりませんでした。
まさかの大学受験失敗と浪人生活
けれども、現実は厳しく、「ここは安全圏でしょ?」なんて高を括っていたすべり止めも含め、私は7校(学部違いも含む)すべての受験に失敗したのです!
恐らく私の大学受験全落ちは、家族全体の空気をかなり悪くさせていたのだと思います。
実は、両親はUターンを決めたものの、先行きは不安定だったのです。
住むところはあるけれど、父は安定した職業を失いました。
50代からの転職はかなり難航しているようでした。
しかも、我が家にはこれからお金がかかるピークに達する子どもが3人。
私は夢の東京1人暮らしどころか、大学進学も諦めたほうが良いような状況だったのです。
すでに実家に戻り、アルバイトのような仕事をしながら職探しをしていた父に、受けた大学がすべて不合格だったことを電話で報告することになりました。
私は失意のどん底でしたが、淡々と報告すると、父もしばらく黙っていました。
怒られるか、大学進学を諦めるように言われるのだろうと思っていたのですが、次に聞こえたのは父の嗚咽でした。
「お父さん、お前が頑張っているのは知っていたからな。だだだだだからさ、お金のことは心配しなくて良いから、もう1年頑張ったら良い」
「お父さんは、本当あんたに甘いんだからね」と、母は笑っていましたが、涙もろい父のお陰で1年間家族と一緒に住みながら浪人生活を送ることができました。
浪人時代は、びっくりするほど快調で、模試では現役時代よりもプラス15くらいの偏差値をキープすることができました。
浪人生独特の肌荒れやくすぶった感情はありましたが、予備校でお昼を一緒に食べたりプリクラを撮りに行ったりする友達もできて順調でした。
そのお陰で、現役時代からの第1志望に合格し、「一人暮らしin東京」を実現できることが決定したのです。
母と部屋探しのために上京して、モノレールの車窓から東京タワーが見えたときの高揚感は忘れられません。
関東育ちの私としては、凱旋上京といった感じでした。
東京での部屋探し、厳しい現実
そこから、母の親戚を頼って何件かの不動産屋さんへ行き、一人暮らしの部屋を探しました。
両親と私で決めた一人暮らしの部屋の条件は、この3つ。
- 家賃は管理費込みで7万円以内
- 安全面を考慮して、2階以上の物件
- トイレとお風呂はセパレート
この条件に見合うところは、山手線沿線では見つかりませんでした。
今考えると当たり前なのですが…。
最初の不動産屋さんに見せてもらった中野区の物件は、いかにも「神田川」の歌に出てきそうな古い和室で、天井にはシミがあって、裸電球が1つ下がってて、薄暗くて。
「あー、私の夢見た一人暮らしってこんな感じなんだ!無印なんて似合わない部屋しか借りれないんだ」と、気づかされました。
何件も見たものの、なかなか良さそうな部屋は見つかりませんでした。
おじいちゃんと梅の花と午後の陽と
見知らぬ私鉄の、各駅停車しか停まらない小さな駅前の昔ながらの喫茶店で休憩しながら、
「もうお母さん疲れちゃった。今日決まらなかったらどうしようね?」と、母が言うと、
親戚のおばさんが、「次に行くところは、私の古い知り合いの不動産屋のイチオシなのよ!大家さんがとにかく良い人だから安心よ」と、コーヒーをすすりながら笑顔を見せました。
喫茶店を出て、大してお店のない商店街を抜けて、しばらく住宅街を歩くと、イチオシ物件がありました。
昭和50年代に建てられた木造モルタルのアパートで、私の頭の中にはやっぱり「神田川」が流れていたと思います。
が、部屋に入ると、開け放たれた窓から降り注ぐ暖かな陽射し、そして目の前には紅白の梅の花が広がっていました。
「今年もきれいに咲きましたねー」と、窓のサッシに腰かけている不動産屋のおじさんが言い、その横に北の国からの田中邦衛さんそのものの姿形をしたおじいちゃんが笑っていました。
この田中邦衛似のおじいちゃんが噂のとにかく良い人の大家さんで、私も母もこのおじいちゃんと梅の花と明るい和室に一瞬で惹かれたのでした。
初めての一人暮らしをした街、それは「井荻」
東京に暮らしたことのない方はほとんどご存知ない場所だと思いますが、私が母と部屋探しに出かけ、初めて一人暮らしをした場所は西武新宿線の井荻というところです。
一人暮らしを始めて2週間ほどで高熱を出し、2日間寝込んで初めてホームシックになったのもこの場所。
親友と呼べる友達ができて、近所のスーパーのおつとめ品と缶チューハイでデロンデロンになったのも、この部屋。
もちろん、大きな失恋をしたときも、この部屋でグズグズ泣いて過ごして、いつの間にお腹が空いてやけ食いをして元気になったものです。
大学時代4年間の思い出すと苦くて滑稽な時間をここで過ごしました。
本当に憧れていたのはもっとおしゃれな街だけど、今も時々思い出すのは井荻です。
大家のおじいちゃんはアパートの階下に住んでいて、庭いじりをしたり早朝から浪曲を歌ったりと元気にしていて、私は毎月家賃を渡しに行って少しお喋りするのが楽しみでもありました。
けれども、私が大学2年生のとき、おじいちゃんは体調を崩して入院し、そのまま亡くなってしまいました。
今思い出したけれど、私はおじいちゃんにお線香もあげていません。
おじいちゃんが手入れしていた梅の木は切られてしまったし、4年間でいろいろなことが変わりました。
それでも、今も最初に母と見た満開の梅の花と午後の陽と、ニット帽をかぶった小さなおじいちゃんのくしゃくしゃした顔は忘れられません。
書籍化記念! SUUMOタウン特別お題キャンペーン #住みたい街、住みたかった街